古墳時代の前方後円墳の分布図をみていると、畿内と東北・西南地域の隔絶性があまりないように感じられます。ヤマト朝廷ができてからは蝦夷や隼人が朝廷に反抗しますが、古墳時代にはそのような中央と地方という分け方は当てはまらないのでしょうか? / 群馬の古墳は、古墳時代を通じ、ヤマトから離れていたにもかかわらず近隣地域のものより大きいですが、なぜなのでしょう。

上の質問とも関係するのですが、前方後円墳が存在するからといって、その地域が面としてヤマト王権に従属していたわけではないだろうと思います。その支配の浸透の度合いは、やはり近畿を中心として、同心円状に疎密がある。東北の前方後円墳などは、その地域に屹立した豪族とヤマト王権が同盟関係、もしくは奉仕関係を結んだことを意味しますが、当の豪族の地域支配がどの程度のものだったのかという問題は残ります。大化の改新で中央集権国家を実現してゆく以前は、ヤマト王権の地方支配体制は、地方豪族を国造に任命してその私有地的支配を追認し、王権に対する一定の奉献を求めるというものでした。未だ個別人身支配にさえ至っていないわけで、地域王権のあり方は、例えば弥生時代のように、東北と近畿、九州ではずいぶん大きな違いがあり、緩やかな部分もあったのではないかと想定されます。なお、群馬県にはのちに上毛野を名乗る有力豪族がおり、その勢力が巨大な前方後円墳となって残っているのです。東国は長く王権にとっての戦力扶植地で、王権の警護を担った丈部(はせつかべ)などは、遠江国以東の東海道東山道北陸道の諸国、および出雲国周防国などに存在しましたが、とくに東国に多かったことが分かっています。