三角縁神獣鏡の銘文が稚拙であるとの見解があるそうですが、なぜそう考えられているのですか? / 銘文は、皇帝が書いたものとは限らないのではないでしょうか? / 中国王朝が、倭や朝鮮に国王号や官職を与えるのはなぜなのでしょう。メリットがよく分かりません。 / 「倭」や「卑弥呼」といった用字は、中華思想に基づくものと思います。こうした見方は、現在の学説からして妥当でしょうか?

中華皇帝は、「文明を持たない」周辺の夷狄に「文明をもたらす」ことを使命としています。「野蛮人」を「中華」化してゆくこと、それが中華思想の根本なのです。周辺諸民族にあえてノンヒューマンな文字を当てはめてゆくことは、単に相手を茂しているのではなく、文明をもたらすお膳立てのために必要なのです。また、官職付与などには個々の局面における政治判断が作用しますが(倭の場合は朝鮮経営が常に問題となります。この時期は、南朝北朝と相対してゆくうえで、朝鮮の位置が政治的に重要になるのです)、大枠は通底しているといえるでしょう。三角縁神獣鏡が魏や晋からの下賜物とすれば、それは、中華王朝の文化の力を反映するものです。とくに、皇帝が文学を奨励した魏であれば、下賜物にもその威厳が反映されなければなりません。皇帝が実際に書いたかどうかは、問題ではないのです。国語学者の森博達さんによると、邪馬台国にもたらされた魏明帝の詔書は全体が韻文として整備されている荘重なものであったにもかかわらず、神獣鏡の銘文は押韻もなく美文として整えられていない。重要な批判で、こうしたことがきちんと説明されない限りは、三角縁神獣鏡を魏の下賜鏡として無条件に肯定するわけにはゆかないのです。