威信財がモノからコトへ変化してゆくのは、中国の影響力の高まり、そしてその影響力への日本国内における共通認識が、もはや物的証拠を用いずとも充分であるほど浸透していたということでしょうか。

少なくとも、ヤマト王権に結集していた諸豪族の間ではそうであった、ということでしょう。弥生時代は、北九州や山陰地域が突出したグローバル・エリートでしたが、古墳時代を通じて鉄資源の追求と配付がなされ、武器や武具が前方後円墳体制を下支えしたことで、朝鮮半島や中華王朝への認識は極めて発展したと考えられます。倭王武の前後には、実際の倭の兵が半島へ渡り、戦闘を繰り広げていますので(「高句麗好太王碑」によっても確認できます)、その派兵に加わった諸豪族には、差し迫った危機感、緊張感も存在したと考えられます。