聖徳太子の話のように、嘘だと分かっていることが、どうして教科書で教えられているのでしょうか?

さて、どうしてでしょうか。全学共通日本史という授業で、何度も発し答えてきた問いです。まず、日本の小中高の教科書は、文科省の検定制度のもとに動いています。この制度は、GHQの占領期、国家が皇民を教育するために国定教科書を用いてきた仕組みを改め、教科書作成を民間に開放したことと連動して、簡単な内容の誤りなどをチェックするために始まりました。その後、解放後の逆コースのなかで国家主義的な介入が強まり、また家永三郎らの教科書裁判を受けて透明化が進んでいたものを、現政権に至って再び国家主義化酷くなりました。現状では、学界で議論がある事項については、学界の意見より、政府の解釈に従う取り決めになっています。突き詰めていえば、学界で正しいと考えられていることが教科書に反映されず、国家の正しいということがストレートに反映される仕組みになっているのです。現実に、アイヌの共同体を解体した旧土人保護法の記述などに、この種の弊害が出始めています。聖徳太子をめぐる記述には、未だこうした介入はありませんが、例えば教科書を用いた指導の詳細を決める指導要領の改訂に際し、信仰上の名称である「聖徳太子」を改め「厩戸王」に変更しようとしたところ(厳密には、人物を中心に教える小学校では「聖徳太子」、史実を教える中学では「厩戸王聖徳太子)」にしようとした)、批判が多く寄せられ、結果、「聖徳太子」表記を統一的に復活する事態などもありました。近代以降の「刷り込み」が、強固に作用しているものと思われます。教科書の記述は、学界の見解(通説)のみならず、国家の目論見や一般社会の通念などとも無関係ではなく、それゆえに刷新されるのが困難なのです。