大兄制に関して、王位継承をめぐる争いのなかで、厳密に大兄が付いているかいないか、ということで何らかの意味はあったのでしょうか?

結局、『日本書紀』に記載されている大兄が、当時存在したすべての大兄であったのかどうかが分からないので、この質問に回答することは困難です。例えばまさに聖徳太子厩戸王は、用明大王と穴穂部間人王女の間に生まれた王子(来目皇子殖栗皇子茨田皇子)の長子であり、斑鳩宮という王子宮を営んでいました。しかし、大兄という称号では呼ばれていません。ただし、講義でお話ししたとおり、一世代に複数の大兄が存在したり推戴する豪族の意向もあって、必ずしも大兄が即位するには至らないのが現実であった、またその継承の順序も遵守されるには至らなかったとはいえそうです。