筑紫国造磐井は、新羅からの援助をどのような形で受けたのでしょうか? / 磐井はなぜ新羅の味方になってしまったのでしょうか。

前提として、国と国との関係を、現在のような国民国家、近代国家どうしの関係のように考えないほうがよい、ということです。九州北部地域の豪族たちは、これまで弥生、古墳時代とお話ししてきたように、ずっと朝鮮半島と緊密な関係を築いてきました。心情的には、ヤマトの畿内王権より、百済新羅加羅などに近かったことも考えられます。とりあえずはヤマト王権に服属し、国造の称号を得ていようと、必ずしもその勢力にアイデンティファイしてはおらず、当然儒教導入以降のような、忠孝の理念に基づく奉仕を重視してもいなかったと考えるべきでしょう。さらに、継体朝という王統交替期の混乱があったとすれば、前王統に馴染んでいればいるほど、さまざまな違和感を抱え込んでいた可能性もあります。弥生時代にみられたような、半島諸国との私的関係が多様に展開していたのなら、未だヤマト王権以外の統一王権が誕生する可能性もあったのかもしれません。