隋へ対等外交を求めたとの記述は、『隋書』にも『日本書紀』にも出ていないとのことでしたが、のちの解釈でそう作り上げてしまったのはなぜなのでしょうか?

授業でもお話ししましたが、聖徳太子による対等外交云々が最初に教科書に登場するのは、大正9年(1920)の『尋常小学国史』でした。これは、大正10年の裕仁皇太子摂政就任と聖徳太子1300年遠忌が重なったことから、「摂政」聖徳太子の事跡を神聖化し喧伝することで、裕仁摂政の立場を強化しようとしたものです。教科書の記述には、「……其の頃、支那は国の勢強く、学問なども進みゐたりしかば、常にみづから高ぶりて、他の国々を皆属国の如くにとりあつかへり。されど太子は少しも其の勢に恐れたまふことなく、彼の国につかはしたまひし国書にも、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙なきか』とかかせまたへり。……」とあります。中国の横暴という古代の情況は、近代の合わせ鏡として書かれています。すなわち同教科書は、国民に対し、同じ摂政である裕仁皇太子と聖徳太子を重ね合わせることで、近代帝国日本の外交政策=大陸進出を正当化しようとしているのです。