聖徳太子のイメージを構築したひとは、どのような意図をもって、誇張したものを波及させたのでしょうか? / 太子伝はなぜ作られたのでしょうか。豪族ではなく王族の偉人を作る必要があったのなら、中大兄や中臣鎌足に対する伝記や信仰が生まれてもよさそうだと思うのですが。 / 平安時代に聖徳太子の伝記を書いたひとは、なぜ史料批判もせずにまったく違うことを書いたのでしょうか。

聖徳太子信仰は、『日本書紀』編纂のあとの奈良時代、初めての女性皇太子であった阿倍内親王孝謙・称徳)の即位に利用されて活性化しました。仏教に帰依した皇太子像を援用することで、性別を超越したありようを目指そうとするんですね。その後はとにかく日本仏教の形成者、聖人の筆頭に掲げられてゆきますので、主に厩戸王が創建に関与した寺院を中心にして、次第に信仰の範囲を拡大してゆきます。平安時代の太子伝は、氏族や国家の庇護を受けた古代寺院が、一般民衆の支持を獲得して中世寺院として生き残ってゆけるかどうかという「政治」の世界において、自分たちの寺院や関連の宗派を正当化し、喧伝するために作成されてゆきました。「史実に忠実に」という製作態度ではなく、『日本書紀』の記述に尾ひれを付けて、どんどんエスカレートさせてゆくのですね。こうした動きは鎌倉仏教まで持続して、浄土真宗親鸞などは、京都における太子信仰の拠点であった六角堂に参籠し、専修念仏の教えに目覚める契機の夢告(法然の教えを仰ぐ契機)を得たといわれています。なお、中大兄や鎌足に対する信仰ももちろんありました。奈良時代の宮廷では天智朝を律令国家の起源とする言説が強くありましたし、鎌足を祀る談山神社も長く信仰を集め、鎌倉の武士政権も彼の事跡を自己正当化の材料に用いてゆきます。鎌倉の地名は鎌足が入鹿誅滅祈願のため鹿島神宮を訪れた途上、いまの鶴岡八幡宮付近に鎌を埋めたことが由来とされたり、中世後期の幸若舞から浄瑠璃「妹背山女庭訓」に至る物語では、狐から授けられた守り刀の鎌で入鹿の首をはねる神話が展開してゆくのです。