白村江の戦いについて、倭は本当に勝算があったのでしょうか。それとも百済との関係上、出兵せざるをえなかったのでしょうか。
これについては、謎が大きいですね。倭はしばらく、朝鮮半島という外地における、本格的な戦闘を経験していません。また、これまでのヤマト王権の戦史記録からいっても、それほど水軍戦に経験が豊富だったとは思われません(もちろん、海上交通や対外軍事に知識・技術のあった氏族を、統轄者として派遣していると考えられますが)。中央集権化を進めるなかで、失われた南朝鮮の拠点に対する〈中華意識〉が肥大化し、百済復興の戦闘によって、それが回復できることを妄想してしまったのでしょう。倭が本当の意味で百済を冊封しようとしていたことは、その後の百済王族の受け容れ方、〈日本〉への傾斜によっても推測できます。その意味では、推古朝の遣隋使と同じように、どこかで外交感覚が麻痺してしまっていたとしか考えられません。