受け入れた百済の難民はどの程度の数だったのでしょうか。

日本書紀天智天皇4年2月己酉朔丁酉条には、百済王族に倭の位階を授け、百済の百姓の男女400人余りを近江国神前郡に貫付したことがみえます。また、同5年是冬条には百済男女2000人余りを東国へ移植させたこと、同10年11月甲午朔癸卯条には、唐使郭務悰らが1400人の百済遺民らしき人びとを率いてきたと記載があります。これらにどの程度重複があるのか、正確な数かどうかは分かりませんが、3000〜5000人規模の受け入れがあったとみてよいのではないでしょうか。