壬申の乱と庚午年籍を関連づける義江彰夫説は面白いと思うのですが、なぜ王が人民のひとりひとりを把握することが、『旧約聖書』でタブーとされていたのでしょうか。 / 日本列島の情況と『旧約聖書』の状態を、それほど簡単に結びつけていいのでしょうか。

旧約聖書フォークロア』を著したフレーザーは、首長制から古代国家へ展開する段階での首長と共同体との関係の軋みを、多くの民族社会に普遍的なものと捉えているのです。弥生時代のところでお話ししたように、共同体の結束を重視する社会では、成員の平準化が図られ、政治的・社会的・経済的に個人が突出することを抑制していました。一方、個別人身支配は、そうした共同体規制を破壊して屹立した首長が、その権威・権力のもとに、人民ひとりひとりを管理・支配するということなのです。『旧約聖書』創世記が表象する神は共同体の神であるために、いわばその神の権威を奪い強大化してゆく王を牽制し、個別人身支配をタブー視しているのでしょう。義江彰夫さんも、もちろん古代イスラエルと列島社会を安易に結びつけているわけありません。類似の社会情況にある列島社会、すなわち、古墳時代を通して共同体を抑圧してきた王の力がある限界を超えようとしている7世紀後半に、『旧約聖書フォークロア』の見方を導入することで、記録に表されていないゆえに可視化されていない、その具体相を浮かび上がらせようとしているのです。