以前関ヶ原に行った際、壬申の乱の激戦地といった碑をみました。天下分け目の戦が二度も同じ場所で行われたことに驚いたのですが、何か地理的な面で戦場になりやすい土地だったのでしょうか。

激戦地というより、大海人が本陣を置いた野上行宮伝承地がある、ということだと思います。付近の不破関が、近畿と東国を分かつ境界でしたので、授業でもお話ししたとおり、同地を閉塞することが大海人の勝利する第一条件でした。それを速やかに達成して、大津朝廷の東国への影響力を遮断し、美濃・尾張信濃などに分布している、大海人を養育した尾張連ら海人系氏族たちの支援を受けることができたわけです。壬申の乱関ヶ原の戦いも、東西を代表する勢力の衝突になっていますので、不破や近江といった、両地の境界に当たる場所で最終的な戦闘が繰り広げられているのでしょう。