藤原京が低湿地帯に造営されたのは、何か理由があったのでしょうか?
よく分かっていないことが多いのですが、ひとつには、古墳時代から続く水の祭祀が、大王の責務として重視されたからでしょう。飛鳥諸宮、難波宮、大津宮とも、水の至近にあり、必ず水とともに語られます。藤原宮も、『万葉集』に採録されたその存在を祝福する歌は「御井」の歌であり、藤原宮に湧出する清泉を言祝ぐ内容になっています。もうひとつは、やはり大和三山と飛鳥時代からの南北・東西の交通路が、条坊の設定の基準になっていたためでしょう。藤原宮に繋がる中央の朱雀大路に、丘陵(日高山)のある位置を設定せざるをえなかったことを考えても、少なくとも宮の置かれる中心地については、あまり設計の自由度がなかったのではないかと考えられます。