藤原京(宮)と藤原氏には、何か特別な繋がりがあったのでしょうか?
正確には、「藤原」と地名が冠されているのは「宮」の部分で、「京」自体は史料的には「新益京」と呼ばれていますので、ここでは藤原宮と藤原氏との関係について考えてみます。実証的には、その関わりは明確ではありません。ただし藤原不比等が、律令を体現する自らの氏族と、律令国家に不可欠な要素である藤原宮とを、関連づけようとしたのは確かでしょう。実は「藤原」という名称は、当初鎌足に連なる中臣氏全体に与えられていたものが、のちに不比等によって、鎌足の子供たちのみに限定されてゆくのです。これは、藤原宮で政務が執られる時代にあって、自らの氏族と王権との一体化を図ったものと考えられます。なお、日本における国文学・民俗学の大成者である折口信夫は、フヂハラを「淵原」、つまり水の湧き出す低湿地帯と解釈したうえで、王権の伝統に連なる、王にその神聖性の証となる聖なる水を捧げる巫女(水の女)の存在を、天皇の妃を輩出する藤原氏の属性にみていました。その見解の当否はともかく、新たな律令国家の出発点において、「藤原」という名称は特別な意味を持ったのだと考えられます。