不比等は大宝律令の制定に関わりますが、律令に関することはどこで学んだのでしょうか? / 国史の編纂や貨幣制の整備なども、不比等が行った政策なのでしょうか。彼は法についての知識だけでなく、経済の動かし方や掌握の仕方についての知識も持ち合わせていたのでしょうか?

不比等と田辺史氏との関係については、『尊卑分脈』藤氏大祖伝/不比等伝に、「内大臣鎌足の第二子なり。一名は史。斉明天皇五年に生まる。公避くるところの事有りて、便ち山科の田辺史大隅等の家に養はる。其れを以て史と名づくるなり」と出てきます。「公避くるところの事有りて」というのがミステリアスですが、とりあえず田辺史についてみてみると、河内国安宿郡田辺(現大阪府柏原市田辺)、摂津国住吉郡田辺郷(現大阪市住吉区田辺)などを拠点とする、フミヒト系渡来系氏族(史部。西文氏の管理下に、文筆・記録を担った)であり、学問や渉外関係で顕著な業績を残した人々を輩出しています。例えば、田辺史鳥は白雉5年(654)の遣唐判官、田辺史百枝は大学博士で大宝律令の撰定者、田辺史首名も同じく大宝律令の撰定者、田辺史大川は宝亀8年(777)の遣唐録事・大外記・『続日本紀』編纂者、田辺史(上毛野朝臣)頴人は延暦23年(804)の遣唐録事・大外記・『新撰姓氏録』の編纂者です。すなわち、歴史編纂だけではなく、不比等の法律的知識、対外的知識なども、この氏族との関わりにおいて養われたものと推測できます。彼は先進的な知識・技術を持つ渡来系氏族に養育され、彼らのネットワークに接続することで、中国や朝鮮の国家運営に関わる知識を吸収し、身体化していったものでしょう。