不比等は、草壁皇子にどのように接近したのでしょうか?

不比等自身が草壁に接近したというより、天武もしくは持統によって、草壁のブレーンとして配置されたということでしょう。草壁のライバルともいうべき大津には、壱伎連博徳、中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須らがブレーンとして奉仕していました。壱岐博徳は斉明〜持統朝に外交官として活躍、大宝律令編纂にも参加しています。中臣意美(臣)麻呂は鎌足の従兄弟国足の子で、藤原姓が不比等の子孫にのみ継承されると中臣氏の族長的地位に就き、大舎人として大津に仕えたのちは、判事・鋳銭司長官・左大弁・神祇伯中納言などを歴任しています。巨勢多益須も『尊卑分脈』の伝記に鎌足の猶子とあり、判事・撰善言司・式部卿などを歴任しました。外交や法律に明るく、鎌足と縁の深い人物たちです。では、鎌足の正統な後継者というべき不比等はどうだったのかといえば、皇太子草壁との繋がり蘇想定せざるをえません。天平勝宝8年(756)『国家珍宝帳』は、同年6月、光明皇后聖武の遺品を東大寺に献納した際の目録ですが、両者の関係を考えるうえで興味深い伝承が記されています。聖武の遺品のひとつとして〈黒作懸佩刀〉なるものが挙げられ、「右、日並皇子常に佩き持ちたまへるところにして、太政大臣に賜ふ。大行天皇即位の時、便ち献ず。大行天皇崩じたまふ時、亦大臣に賜ふ。大臣薨ずる日、更に後太上天皇に献ず」、すなわち同太刀は、もともと草壁の佩刀を不比等に与えたもので、文武即位のときに不比等から奉献され、文武が崩御したときにまた不比等に賜り、不比等薨去の際に聖武に奉献されたというのです。不比等が草壁皇統の存続を補佐する、象徴ともいえるものだったのでしょう。