女性が初の天皇になったとき、さまざまな不満が出てきたとのことですが、具体的にどのような問題があったのでしょうか。
前回の質問でもある程度は答えていますが、やや誤解があるようです。阿倍内親王=孝謙=称徳は、日本最初の女性天皇ではありません。大王としてはすでに推古、皇極=斉明がいましたし、天皇としても、持統、元明、元正が即位しています。最初であるのは「皇太子」で、のちに天皇となることが約束された、前帝によって指名された唯一の後継者になったということです。持統にしても元明、元正にしても、みな皇后、もしくは天皇の妹として、皇太子として立った特定の皇子が即位に相応しい年齢に達するまでの間、代理のような形で即位することになった、いわばイレギュラーな即位であったわけです。『続日本紀』によると、のちに乱を起こした橘奈良麻呂は、天平17年(745)に聖武が難波に行幸した際、「陛下の枕席安からず、殆ど大漸に至る。然して猶ほ皇嗣を立つることなし。恐らくは変有るか(陛下の体調は思わしくなく、だんだん病が重くなっている。けれども、未だに後継者を定めていない。何か事変が起きるのではないか)」と述べたといいます。このとき、すでに阿倍内親王は立太子し、皇太子となっていたにもかかわらず、です。奈良麻呂の認識が多数意見であったかどうかはわかりませんが、このときの宮廷社会に、女性皇太子は正式な皇嗣ではないという考え方があったことは確かでしょう。