官僚の多くが天然痘で死んでしまったとのことですが、急遽政治運営に当たる人々を決定する仕方はどんなものでしょうか。
福原栄太郎氏の研究によると、天平9年の大流行では、従五位下以上の京官の約4割弱が半年のうちに死亡しており、12月末の任官では16寮のうち9寮の長官が新任となっています。また、細井浩志氏の指摘によると、『続日本紀』中の天平10年〜天平勝宝8歳の期間には、元日朝賀の際に奏上される祥瑞記事、日蝕や天文異変に関する記事が断続的にしかみられず、これは永久保存されるはずの祥瑞奏文・天文密奏が失われているからで、天然痘流行による実務官人の死亡が原因と考えられる、とのこと。熟練の実務官人を失った律令国家は、さまざまな局面で破綻が生じていたようですが、残った官僚たちを掻き集め、必要最小限の職務に専念させて、特例の昇進により上層部の穴埋めを進めていったのだと推測されます。橘諸兄政権は天平9年9月に発足しますが、参議であった橘諸兄は中納言を経ずに大納言に昇進(それでも当時は最高官)、また長屋王の弟の鈴鹿王が、やはり参議から知太政官事へと一足飛びに昇進しています。