なぜ天平7年、急に天然痘が大流行したのでしょうか?

以前に特講で半年、この話をしたことがあります。『続日本紀』によると、天平7年の流行の原因は明確ではありませんが、被害が北九州の大宰府管内から始まっていること、遣唐使船帰朝後数ヶ月で大規模化していることなどからすると、やはり海外から持ち込まれた可能性は高いと思います。それまで列島に天然痘の流行がなかったとはいえませんが、身体的にも社会的にも耐性の弱い状態が大流行に繋がったのでしょう。天平9年はそれに輪をかけて深刻な事態となりましたが、こちらは、遣新羅使が感染し列島へ持ち込んだことが分かっています。『続日本紀天平9年正月辛丑条は、「遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大蔵忌寸麻呂ら京に入る。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂、津嶋に泊りて卒しぬ。副使従六位下大伴宿祢三中、病に染みて京に入ることを得ず」と伝えています。同年4月には大宰府管内で流行、その波は6月に平城京へ到達、8月まで猛威を振るい朝廷の要職者が次々と死亡することになりました。こうした病因への認識はやがてステレオタイプ化し、仮想敵国新羅への反感とともに、新羅天然痘の直結がなされてゆきます。撰者不詳・建保7年(1219)『続古事談』巻5-6には、源俊房『水左記』承保4年(1077)8月9日条を一般化する形で、「もがさと云病は、新羅国よりおこりたり。筑紫の人うをかひける船、はなれて彼国につきて、その人うつりやみてきたれりけるとぞ」と、新羅と筑紫との間を往還していた鵜飼いが持ち込んだ、との起源譚が載せられています。また、藤原定家『明月記』天福元年(1233)2月17日条には、「近日咳病、世俗に夷病と称す、去ぬる比夷狄入京し、万人翫見すと云々」とあり、夷狄のもたらす「夷病」の問題がささやかれていて、「外部」がよこしまなものをもたらす恐怖の対象としてみられていたことが分かります。