1950年代、「記録の時代」の「記録」には、どのような性格があったのだろうか。 / 国民的歴史学運動においては、どのような人たちがどのような歴史を学ぶのがよいとされたのでしょうか?

「記録」の時代の「記録」は、現在でいう実証主義的な「ありのまま」よりも、より広汎で豊かな記述の仕方を含むものでした。それは必ずしもリアリズムではなく、散文でもなく、例えば詩歌の形をとって、東アジアの間に広汎な共感と協働を呼び起こしました。中国の労働者と連帯しながら、韓国の農業従事者と連帯しながら、幾つもの詩集や文集が生まれました。「リアリズムとは限らない」というのは、例えば当時日本列島中を歩いて人々の日常を記録した宮本常一が、主著『忘れられた日本人』のなかで描き出している「土佐源氏」です。高知の橋下に住まう乞食の老人が一人称で語る放浪の人生と女性遍歴は、宮本のフィールドワークの成果ですが、実はありのままの「事実」ではありませんでした。しかしそこに描かれているのは、紛れもなくかつて列島に存在したであろう人間の生きざまなのです。
国民的歴史学運動にも類似の情況がありましたが、授業では言及しなかった大きな「成果」があります。それは、1953年、岡山県久米郡で行われた月の輪古墳の発掘調査です。古墳の外構部も含めた日本初のその全面発掘には、5ヶ月弱の間に延べ1万人の村人が協力しましたが、そのなかには、近隣の小学生〜高校生、被差別部落の人々、戦時中に強制連行された朝鮮人の鉱山労働者も含まれていました。研究者と協働したその作業過程は村人たちにとってかけがえのないアイデンティティーとなり、列島に生き古墳文化を形成した人々が、渡来系の人々を多く含む極めて複合的な集団であったことを明らかにしていったのです。それは紛れもなく、単一民族を強調した戦前・戦中の皇国史観、ナショナル・ヒストリーを相対化する歴史=ナラティヴであったわけです。