自然たる神の創造者や超越者はいないのか。何だか神が個別的で、全世界を説明するような形而上学的体系は、外来のもののように思われる。

縄文時代の遺物や遺構を分析してみると、どうやら当時の人々は、死と再生という自然の循環のサイクルを、神的なものとして信仰していたらしいことが窺えます。森羅万象に精霊の宿るアニミズムは、そのうえに展開していたと理解するならば、かかる〈死と再生〉こそが創造者・超越者だといえるかもしれません。もちろんそれは法則なので、人間の人格を投映して把握したりはしませんが。7〜8世紀の『古事記』上巻/神代には、神が十全たる存在になる生成過程を、漸次的に出現する神の名称によって叙述しようとします。すなわち、空間の特定(アメノミナカヌシ)→エネルギーの発生(タカミムスヒ・カミムスヒ)→エネルギーの作用する場の発生(ウマシアシカビジコヂノカミ・アメノトコタチノカミ・クニノトコタチノカミ・トヨクモヌノカミ)→身体の原質の生成(ウヒヂニノカミ・スヒヂニノカミ)→身体の枠組みの生成(ツノグヒノカミ・イクグヒノカミ)→生殖器の生成(オホトノヂノカミ・オホトノベノカミ)→面貌の生成(オモダルノカミ・アヤカシコネノカミ)→コミュニケーションの生成(イザナキノカミ・イザナミノカミ)といった流れです。『書紀』正文も、中国的な陰陽和合の概念を加えてはいるが、ほぼ同じ内容で記述しています。このうち、タカミムスヒ・カミムスヒのムスヒは生成するエネルギーの神格化であり、縄文の〈死と再生〉に近い存在です。このように考えてゆくと、個別具体的なアニミズムの世界にも、形而上の存在は想像されているのだといえると思います。