のちにアイヌが同化されてゆく段階にあって、分断され幕府と関わらなかったような地域では、アイヌ文化を維持できたのでしょうか。
上にも触れたとおり、幕府直轄化による和名化などは進められてゆきますが、アイヌの文化が全面的に破壊されていったわけではありません。アイヌ文化自体が交易のなかから形成されてゆくことを考えれば、文化とは常に変転を繰り返すものなので、和人やロシア人との関係のなかで変化をしてゆくことは、それが自主的なものであれば問題はないわけです。ただし、政治的・経済的な関係の変化によって、否応なく日常生活が様変わりしてしまうということはあります。直轄化によって、幕府はアイヌとアムール川流域との交易に介入し、彼らの、蝦夷地と樺太との自由な往来を禁止します。それには、松前藩の要求によって無理な交易を続けた結果、アイヌが山丹人らに多大の負債を抱えてしまい、下人のように駆使される情況もあったものと考えられています。いずれにしろこの前後から、近世初期まで続いたアイヌのグローバルな活動は抑制され、その経済や文化も急激に縮小してゆくことになります。幕末から近代においては、例えば早くにイザベラ・バードが北海道へ入っており、『日本奥地紀行』などで当時のアイヌの生活を描いていますが、彼女の目に映ったのは、独自の文化を持ちつつ零細な生活に甘んじるアイヌたちでした。彼らの文化が決定的な打撃を受けるのは近代の同化政策ですが、それ以前の19世紀前半に、大きな画期があったとみるべきかもしれません。