当時、敵国ではない朝鮮において、しかも兵士ではない一般市民を相手に行われた皆殺し作戦は、戦いとしてはどのような位置づけになるのでしょうか。 / 国際法違反とのことですが、当時国際法はどの程度守られていたのでしょうか。

1880〜90年代にかけて、日本では国際法の翻訳ブームが起こり、盛んに訳書が刊行され急速に理解が進んでゆきます。そのなかから、有賀長雄、寺尾亨、高橋作衛、中村進午といった、国際法を専門とする法学者が登場してくるのです。川尻文彦氏(「『万国公法』の運命」、『愛知県立大学国語学部紀要』言語・文学編49、2017年)によると、同時期には日本と諸外国の間で多くの渉外事件が発生しており、国際法研究の必要性が高まっていたとのこと。彼らのうち有賀と高橋は、戦時国際法の専門家として日清戦争に従軍、日本が同法を遵守していることを国際社会へ喧伝し、ヨーロッパ諸国に比肩しうる文明国であることを示す役割を担いました。しかし、実態がいかなるものであったかは、授業でお話ししたとおりです。敵国でない国家の、反乱者とはいえ一般市民を皆殺しにするなどの行為は、宣戦布告のない一方的侵略行為以外の何ものでもありません。有賀は、1896年にフランス語で『国際法の見地から見たる日清戦争』を、高橋は、1903年に英語で『日清戦争中の国際法事例』を出版しています。有賀は同書の日本語版にて、「本書の目的は、日清戦役に於て敵は戦律を無視したるにも拘らず、我軍は文明交戦の条規に準拠したる詳細の事実を、欧州の国際法学者に伝へんとするに在り」と述べており、これらの活動も東学党第二次蜂起殲滅戦を「隠蔽」するうえで一役買ったと思われます。