宮澤賢治における自己犠牲の問題は、彼が自ら進んで兵役志願したことと関係があるのでしょうか?

1918/2/1付の、父政次郎宛書簡43の問題ですね。宮澤賢治はこの手紙のなかで、次のように書いています。「次に徴兵の事に御座候へども右に就ては折角御思案下され候処重ねて申し兼ね候へども来春に延し候は何としても不利の様に御座候 斯る問題はその為仮令結果悪くとも本人に御任せ下され候方皆々の心持も納まり候間何卒今春の事と御許し下され度候 仮令、半年一年学校に残るとしても然く致し下され候はゞ入営も早く来々年よりは大低自由に働き得る事に御座候…。」この書簡については、賢治が父親の止めるのも聞かず徴兵検査を進んで受けたこと(結果は第二乙種で兵役免除)から、賢治と父親との対立、国柱会にも入会していた彼のナショナリズムとの関係で理解されるのが一般的でした。しかし近年、「来春に延し候は何としても不利」という言葉に注目した中村晋吾氏によって、新しい解釈が示されています。実は賢治は、上記の書簡のしばらく後、2/23付政次郎宛書簡46で、「殊に一年志願兵は半年は学課のみに有之候」と、一年志願兵制度を強く意識しているのです。これは1889年の制定で、小学校以外の官立学校、師範学校、中学校を卒業した27歳以下の者が、服役中の食料・被服・装備などの費用を自弁することで、進級が早く年季も通常より2年短い志願兵になる試験を受けられるものです。それが、賢治が書簡を出した翌年の1919年12月に、年齢を22歳以下に引き下げ、改正施行されることになっていました。賢治は1918年8月には22歳になっていますので、徴兵検査を翌年に延期すれば年齢ギリギリとなり、同年末の改正施行の際には23歳、すなわち年齢の上限を超えてしまうことになる。「来春に延し候は何としても不利」とは、制度改変直前に上限ギリギリで検査を受けていることについて、何か不利な状況が生じるのではないかという危惧があったことを意味している。すなわち、賢治が進んで検査を受けたのは、国家の命じる戦争の義務を積極的に遂行しようとしたわけではなく、むしろ逆に兵役をできるだけ短く済ませるための方策だった可能性が高い。ぼくも、この見解は正鵠を射ているのではないかと思います。