木地師が小倉という姓を名乗ったように、他のやまびとも保護?されて、苗字を与えられて生きているのではないか。日本にはもうやまびとはいないと思う。

「やまびとは消えたのか?」という問いは、実体的な山人を指して発したのではありません。差別的な表象を付され、ときには権力によって抑圧され、そして近代化のなかで消滅を余儀なくされた人たち…。そうした人たちは、なぜ消えたのか。時代に合わなかったからか、それともわれわれが見て見ぬ振りをして、故意に消し去ってしまったのか。彼らと同様の情況にあるひとびとは、いまわれわれの身近にもいるのではないか。われわれは、彼らにきちんと視線を注げているだろうか、向き合っているだろうか。そういう問いなのです。ちなみに、苗字を与えられることは保護なのでしょうか? 個々の名前のほかに集団としてグルーピングされる、それはむしろ統治や支配のための措置なのではないでしょうか? 少し考えてみて下さい。