宮澤賢治の作品は利他主義である、という話を高校の頃に学びました。しかし、なぜ自己犠牲でなくてはいけなかったのでしょう。正直私には考えがたい思考です。
このことについては、いろいろな解釈が可能でしょう。宮澤賢治の作品を思想史的に解釈するなら、例えば、彼の信仰した『法華経』の薬王菩薩本事品に描かれる、自らの身体を燃やした火光で世界の闇を照らすという、焼身供養に起源しているのだと説明できるでしょう(まさに、『銀河鉄道の夜』の「さそりの火」です)。実際、この教えが中国に広まった6〜7世紀には、自分の身体に火を付けて神仏への供養を行う僧尼が、少なからずいました。現代でも、チベットや東南アジアなど上座部仏教の盛んな地域では、権力に抗議して焼身供養を行う僧侶が時折見受けられます。仏教では、現在得ている心身は、遠大な時間のなかで仮に結びあったものに過ぎません。それが行為の善悪によって、よりよいところ、より悪いところへ、(覚りを開いて解脱しない限り)永久に転生し続ける。それは永劫の苦しみにほかならず、そこから逃れるためには、悪業を抑制し善業を積み上げてゆくしかない。その意味で、利他を目的とした自己犠牲は最高の自利であり、未来によりよい世界へ生まれるための、最良の善業でもあったのです。
また心理学的に考えるなら、賢治自身の、社会的な後ろめたさも大きく影響したかもしれません。彼は貧窮のうち続く東北社会にあって、金貸しもする裕福な家庭に育ち、そのことをトラウマのように抱え込んでいました。自分を否定することで、初めて社会のなかに自分のポジションを確保してゆくことができる、という心境にあったとも考えられます。また、「なめとこ山の熊」などの童話には、自然環境と人間との関係について、「人間が自然のものを殺して食べるのは生きてゆくうえで仕方がないが、他のものが飢えて死にそうなときには、いままでの報恩として自分もその生命を差し出さなければならない」といった考え方がみられます。こうしたものが複雑に絡み合いながら、賢治の自己犠牲をめぐる思想が形成されているのでしょう。