青銅器は、最初と最後では、なぜ使用の仕方に相違が生じたのでしょうか? 長く使われたものには霊魂が宿るという、付喪神的な発想でしょうか? / 青銅器が実用的なものから祭器的なものへ変化するのは、その地域が裕福になったためですか?
青銅器は、弥生時代の日本列島においては極めて貴重なものでしたので、実用品が半島から将来されたときにも、その価値は木材や石材を用いた道具類より高く、平準化された共同体においては、全体で共有する宝器的位置づけ、階層化された社会においては、一部の上層階層のみ使用できる存在であったろうと思います。すなわち、将来の当初から何らかの権威を帯びた物品だった、ということです。北部九州の階層社会においては、青銅器が首長の所有物となり、その権威を表すものとして、武器型はその特徴たる刃部分が肥大化してゆくわけです。近畿・東海の銅鐸の場合はそれより複雑で、楽器として用いられた段階でも、恐らくは神霊を招く目的で打ち鳴らされたものとみられています。アジアのシャーマニズムにおいては、祭祀の場に神霊を呼ぶ際に、吹奏楽器、管弦楽器、打楽器など、さまざまな楽器がその導き手として演奏されることが多い。いまも日本に残る雅楽は、中国から将来され宮廷音楽として発展、仏教や神道にも採り入れられていったものですが、本質的には同じ意味を持っています。銅鐸も、稲作の豊穣を祈る祭祀において、稲霊などの神霊を勧請する機能を持っていたのでしょう。そのこととも関連し、やがて銅鐸の表面には、水田周辺の情景を描いた絵画が鋳造されてゆきます。「聞く銅鐸から見る銅鐸へ」変化した、などといわれますが、九州などと同じく共同体の象徴として肥大化した結果、楽器として機能させるのが難しくなり、同時に絵画や紋様など視覚的機能、見ることによる効果を重視する方向へ発展していったのでしょう。なお、このような変化は、青銅器を用いる社会が「裕福になった」ことも一因と思いますが、それが経済的なものなのか、政治的なものなのか、精神的なものなのかは明確に考えておく必要があります。できるだけたくさんの質のよい青銅器を生産する競争が、複数の共同体の間に生じていた可能性もありますので、もちろん経済的な意味での富裕化も関係しているでしょう。しかしその機能を考えた場合には、やはり権力や共同体のあり方を体現するという要因が、最も大きかったものと思います。