当時の人々は、大陸から来た人々と、どのように会話をしていたのでしょうか?

玄界灘から日本海南側までを挟んだ九州〜山陰地方と、朝鮮半島南部との間には、古くから海上交通を介して交流がありました。北九州のみならず、山陰から北陸地域にかけての弥生遺跡からも、半島から将来されたと考えられる遺物が多く出土しています。例えば、鳥取県の青谷上寺地遺跡からは、200を超える卜骨(鹿や猪の肩甲骨を、熱卜に用いたもの)が発掘されていますが、そのなかには、半島南部の勒島遺跡からみつかっているのと同じ、骨が3枚セットになった形式のものが確認されています。これは他地域に類例のない遺物で、2つの遺跡の密接な繋がりを窺わせるものです。現在でも、朝鮮の言葉と日本の言葉との間には、文法や字句、発音に類似のものが認められますが、古い時代、そして半島に近い地域では、より共通性の高い言語が話されていたと考えられます。また、それらの地域で多く接触のあった共同体のなかには(対馬壱岐などはなおさらでしょう)、2つの言語を活用できる人々が少なからずいたはずです。やがて時代が進んでゆくと、そうした交流は王権を構成していた豪族にも及び、半島や北九州には、それぞれから移住した人々が雑居する場所や、お互いの王権に奉仕するような人々も現れます。『宋書』に記載のある有名な倭王武の上表文には、中国名を持った武の幕僚の名前がありますが、そうしたまさに渡来系の人々は、複数の言葉や文字を活用できる能力、外交文書に関する知識などを駆使して、東アジアの国際政治に貢献してゆくのです。