B.C.1c頃には銅矛や銅鐸、銅剣の文化圏にあった出雲や吉備が、A.D.2cには墳丘墓の祭祀に移行してゆくのは、近畿や北九州から独立し、独自の文化を営んでいったからといえるのだろうか?
もともと、北九州と近畿という大きな2つの政治グループに挟まれ、その影響下にあったのが出雲や吉備です。しかし、日本海側から独自に朝鮮半島の人、モノ、情報を輸入できたこともあり、次第にそれらへの依存から脱して、独自の方向へ進み始めます。その際、自ら生みだした青銅器の製造・使用体系が希薄であった分、新たなシステムへの移行が容易であったのではないか、と推測されています。銅鐸を用いた共同体祭祀を自ら発展させた近畿では、古墳祭祀へ移行する際、前代の聖遺物を執拗に破壊し粉砕する必要があった。出雲では、神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などに大規模な青銅器の埋納がみられ、かつては大地への奉献である、あるいは蕩尽・競争であるとの見解が出されましたが、現在では、やはり祭祀体系の移行を意味するのではないかとの見方もあります。「破壊」と「埋納」を比較してみるとき、後者のほうがスムーズな転換だったのではないかと想像されます。