魏が邪馬台国を重視したのは、何のためだったのでしょうか?
中国史においては、群雄割拠の時代によく採られる外交政策として、「遠交近攻」策があります。文字どおり、遠国と誼を結んで近国を攻撃する、というものです。三国時代後半の魏においては、まずは頻繁に「北伐」を仕掛けてくる諸葛亮の蜀、そして東シナ海の制海権を握り、沿海地域を通じ南北に影響力を及ぼそうとする呉が脅威でした。授業でもお話ししたとおり、西の大月氏との関係が安定し、諸葛亮の逝去により蜀の力が弱まると、公孫淵の燕を滅ぼし、海を挟んだ極東に位置する邪馬台国と有効な関係を築いて、呉を牽制しようとしたと考えられます。卑弥呼の使者が魏へ辿り着いたのは、景初2年(238)か3年であったと想定されていますが、前年ならば未だ朝鮮半島、遼東半島では、燕の勢力を駆逐するための戦闘が続いていました。こうした大陸東部、東北部を安定させる意味でも、邪馬台国が大月氏のような役割を期待されたのでしょう。