王権が近畿でなければならないのは分かったが、なぜ奈良盆地だったのだろうか。大阪平野のほうが、四方に開かれていたのではないか?

弥生〜古墳移行期の大阪平野は、未だ大半が淡水湖の河内湖(草香江)か、もしくは大和川水系淀川水系から流れ込む水により低湿地化していました。河内の古墳グループは、いずれもこのような低地が丘陵にかかる高燥な地帯に存在しており、渡来系の人びとの知識・技術を動員した結果として治水の成功し、築き上げられていった王統であったと考えられます。4〜5世紀にかけては、ヤマト王権の外港も難波ではなく、紀ノ川河口の紀水門でした。ヤマトに王権が誕生する時期には、未だ難波は、巨大権力が胚胎する環境としては整備されていなかったと考えられます。

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古代難波地域の景観〔日下雅義『古代景観の復原』中央公論社、1991年〕