大王は、東国から九州までの領域を支配する際、中央から地方への意思伝達をどのように行ったのでしょうか?

授業で紹介した稲荷山古墳出土鉄剣銘にしろ、江田船山古墳出土大刀銘にしろ、地方の有力者が、王権の職務を世襲的に担っていたことを伝えています。また、杖刀人にしろ典曹にしろ、ワカタケル大王の「斯鬼宮」へ出仕する役職でした。すなわち、東国からも九州からも、地域の有力者が中央へ召喚され奉仕していたわけです。そもそもの前方後円墳自体、大王墓の数分の一の規格で造営されるものですので、その設計や造営に関しては、中央から人の移動があったことは間違いありません。すでにヤマト王権発祥の纒向遺跡の時点で、全国各地から物資が中央へ集積されていることが明らかになっています。交通制度の実態は未だ不明ですが、中央と各地方を結ぶ交通網が整備されつつあったのは確実でしょう。