ヤマトが東アジア的な政治を行っていたという考えは、後世にその種の史料を解読できるようになってから生まれたものと思うが、古墳時代の当時、外国の文献を解読できる人や、外国との交流を図れる人は存在したのか?

「東アジア的な政治」というのは、劉宋に対して朝貢していたこと、朝鮮三国と競合していたことでしょうか。もしそうならば、授業でもお話ししましたように、これは後世の評価ではなく、同時代的な事実です。倭王武の上表文は、『宋書』列伝/夷蛮伝の掲載で、これはもちろん劉宋期の編纂ではなく、後継王朝の南斉のとき、宋にも出仕した沈約が担ったものですが、宋代の編纂物や記録類をもとにしています。多少の省略や字句の異同こそあれ、ほぼそのままの内容が、武によって上表されたと考えてよいでしょう。『宋書』の記録のうち、倭王讃に関するくだりのなかには、劉宋に派遣された使者として司馬曹達の名がみえます。司馬は軍事を掌る中国的官職、曹達は明らかに中国人の氏名です。武の政権には、このような渡来人たちが奉仕し、中国王朝や朝鮮諸国との外交を担っていたと考えられます。外交に関しては、文書の書式や儀礼その他、種々の約束事がありますが、辺境諸国には、無論通暁している人材は少ないはずです。それらを曹達のような人材が担い、府官制を積極的に利用して、東アジアの国際政治における倭の立場を構築しようとしていたのでしょう。やはり劉宋に上表して将軍職を手に入れていた高句麗百済も同様であったと考えられます。これも、鎌倉時代源頼朝が幕府を開くにあたり、大江広元三善康信を招聘して文書行政その他を担当させたことと相似をなし、興味深いことです。