飛鳥は地図でみたとおり「どんづまり」で、戦いに向いていなさそうです。ここに連続して宮が作られたのは、比較的平和な時代であったということでしょうか?

授業でもお話ししたように、ヤマト王権の中心はかつては纒向周辺、すなわち飛鳥より北側の、より開けた盆地のうちにありました。一時期は、大王を輩出するグループが、朝鮮南部と結びついた河内方面へ移動しますが、6世紀以降は再び大和へ戻り、飛鳥へ南下してゆくことになります。これは恐らく、大王家と姻戚関係を結んだ有力豪族の勢力圏と関係します。蘇我氏以前に同じような立場にあったのは葛城氏で、現在の奈良県葛城市・御所市付近、大和から河内、あるいは紀ノ川へ抜けるルートを押さえていました。4〜5世紀において、ヤマト王権の外港は未だ難波ではなく、紀ノ川の河口である紀水門で、葛城氏は同所から大和に至る流通を掌握し、海外の先進的な知識・文物・人間を統率下に置いていたのです。同所には、墳丘長が230メートルを超える宮山古墳、巣山古墳といった前方後円墳があり、葛城山系の東麓には、1キロ以上にわたって集落、工房、水の祭祀遺構などが非尖っています。日本書紀』には、安康天皇の頃、これを暗殺した眉輪王を葛城の本宗円大臣が匿い、大泊瀬皇子(のちの雄略)に攻められ殺害されたとの記事があります。恐らくは、勢力の巨大化しすぎた葛城氏と大王家との間に政治的軋轢が生じ、専制的な権力を構築しようとしていた雄略によって排除されるに至ったのでしょう。蘇我氏は飛鳥を本拠に、この葛城氏の後裔を名乗り、その遺産を継承することで拡大してきました。飛鳥の南側の嶋地域には馬子の邸宅、西側には蝦夷・入鹿父子の居館があった甘樫丘、北側には蘇我氏の氏寺ともいうべき飛鳥寺、さらに東側の山田道には、のちに蘇我本宗家から離反する倉山田家の邸宅があって、ちょうど歴代の大王宮を囲んでいました。大王家が蘇我氏に包摂されている形ですが、同時に、飛鳥中心部が蘇我氏によって防衛されていたことも意味します。確かに地形的には「どんづまり」にみえますが、三方を山地に囲まれた飛鳥は天然の要害でもあり、守りに適した場所であったとはいえるでしょう。