白村江の戦いの後や壬申の乱の際に東国が重視されたように、ヤマト王権にとって東国の価値は高いものであったと考えられます。それはいつからのことでしょうか?

まず、当時の〈東国〉は不破関より東、現在の中部地方から関東に至る地域を漠然と意味していました。『日本書紀景行天皇27年春2月壬子条には、「武内宿禰、東国より還りて奏して言さく、『東夷の中に、日高見国有り。其の国人の男女、並に椎結文身し、人となり勇悍なり、是を総じて蝦夷と曰ふ。亦土地沃壤かにして曠し、擊ちて取るべし」とあり、東国について、土地は豊穣で強力かつ勇敢な人びとが住む場所との認識が語られています。エミシとは、本来そのように「強力かつ勇敢な人びと」を指す言葉であったものに、のち、中華思想華夷秩序を反映した「毛人」「蝦夷」などの表記が充てられるようになったものと考えられます。「蝦」はエビで髯の長いこと、すなわち未開人の象徴であり、「夷」は東西南北の夷狄のうち東にあるもののことです。現在の群馬県・栃木県辺りを指す「上毛野」「下毛野」の「毛野」とは、作物が豊かに実る土地の意味ですから、「毛人」は毛の長い意味ではなく、豊かなイメージを共有するものかもしれません。これらの地域には巨大な前方後円墳があり、強力な豪族が君臨していたことが分かっています。恐らくはその系譜を引く上毛野氏は、東国統治を命令されたという崇神天皇の皇子、豊城入彦命を始祖とする伝承を持ち、朝廷とも密接な繋がりを持っていました。また、東国には軍事的部民である丈部が多く置かれていました。もともとは、ややオリエンタリズム的なイメージから「東方の強力」が生じ、やがては王権と密接に繋がる武力の実体、そして蝦夷との関わりのなかで、豊穣・強力・野蛮の3拍子が出来上がってゆくものと考えられます。