蘇我本宗家は権力集中に破綻したが、中大兄らの改新勢力はそのことに成功したようだ。両者の違いはどこにあったのか?
身も蓋もないいい方ですが、これは偶然性に左右されるところが大きかったかもしれません。蘇我本宗家は、馬子から蝦夷への権力移譲の際に不安要素があり、内紛によって有力な家を幾つか失ったこと、入鹿の実力行使が過激でやはり自身の勢力の縮減に繋がってしまったことなど、勢力の分裂が大きな要因となって破綻へ向かいました。改新勢力に味方した阿倍内麻呂や蘇我倉山田石川麻呂は、もともと蘇我本宗家と同調していましたが、その内紛の過程で離反していったグループです。しかし、改新勢力の中心である軽皇子(孝徳天皇)、中大兄皇子、中臣鎌足らにも、実は何度か同じような危機がありました。中大兄は、古人大兄、石川麻呂、有間皇子ら、反対派を次々と謀略によって排除してゆき、最終的には孝徳とも袂を分かちます。それで改新勢力が蘇我本宗家と同じ運命を辿らなかったのは、やはり東アジアの国際的危機のなかで大規模な混乱の継続を王権全体が望まなかったこと、改新勢力以外にこれと比肩しうる勢力が存在しなかったことが理由でしょうか。しかしやはり、不満は確実に蓄積されていったはずで、それが壬申の乱の大友方の敗北となって現れた、といえるかもしれません。