ヤマト王権の時空支配の話が出てきましたが、当時、一般庶民に時間の認識はあったのでしょうか? 元号が大王ごとに変わっていたのでしょうか?

太陽の運行と月の運行に基づく、時間認識、季節認識はあったものと思われます。『隋書』巻81 列伝/東夷/倭国条によると、開皇20年(600)、倭は隋へ使者を派遣し、煬帝に謁見しています。そのときの記述に、次のような一節があります。「 倭王、姓は阿每(アメ)、字は多利思比孤(タリシヒコ)、阿輩雞彌(オホキミ)と号す。使を遣して闕に詣る。上、所司をして其の風俗を訪はしむ。使者言さく、『倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴く。跏趺して坐し、日出れば便ち理務を停めて云はく、「我が弟に委す」と』。高祖曰はく、『此れ太だ義理無し』と」。この年に遣隋使があったことは、『書紀』には記されていませんが、同書の実録性に対する疑問もあり、概ね史実であると認められています。ただし、『書紀』では推古朝とするこの時期に、『隋書』では男王が立っていること、それは一体誰なのかということ、太子として「和歌弥多弗利(ワカミタフリ)」という人物が登場するが、彼と厩戸王との関連はどうなのかなど、複数疑問もあります。それはともかく、当時の朝廷(水時計導入前)が太陽の運行によって時間を区分していたことが、明確に分かる記録です。