なぜヤマト王権は、百済復興のために大規模な軍隊を派遣したのでしょうか? 勝算があると考えていたのでしょうか?

倭はしばらく、朝鮮半島という外地における、本格的な戦闘を経験していません。史料的に確認できるのは、広開土王碑文や倭王武上表文にみえる5世紀後半までです。また、これまでのヤマト王権の戦史記録からいっても、船を用いた水軍戦について、経験が豊富だったとは思われません(もちろん、阿倍氏や阿曇氏など、海上交通や対外軍事に知識・技術のあった氏族を、統轄者として派遣していますが)。中央集権化を進めるなかで、失われた南朝鮮の拠点に対する〈中華意識〉が肥大化し、百済復興の戦闘によって、それが回復できることを妄想してしまったのでしょうか。あるいは、百済全土の復興が叶わなくとも、たとえ小規模なものでもどこかに拠点を構築し、倭に少しでも利益が得られる形での決着を構想していたのかもしれません。倭が本当の意味で百済冊封しようとしていたことは、その後の百済王族の受け容れ方、新国号〈日本〉への傾斜によっても推測できます。その意味では、推古朝の遣隋使と同じように、どこかで外交感覚、戦局眼のようなものが麻痺してしまっていたのでしょう。