蘇我馬子はなぜ、小姉君の子として蘇我の血を引く崇峻を謀殺したのでしょうか。後継者争いで混乱していた時期に、どうしてまた余計に混乱させるようなことをしたのでしょう。

まず、この時期の王権は蘇我氏と一体化しており、蘇我馬子が朝廷を統括していた点を重視する必要があります。のちに、蘇我入鹿蘇我氏の血を引く山背大兄を襲撃していますが、入鹿はむしろ、山背大兄が蘇我氏内部の人間であったからこそ、本宗家として混乱を終息させるために手を下した、といえるでしょう。馬子の場合も同様で、泊瀬部/穴穂部の対立と穴穂部の殺害、穴穂部を推戴していた物部氏の滅亡と、ヤマト王権中枢部が大いに動揺しているなかで、馬子の権力の大きさに不満を抱いた崇峻が不穏な動きを示したため、混乱をこれ以上大きくしないために、崇峻を殺害するに至ったのだと思われます。『日本書紀』は、何度も説明しているとおり充分な史料批判を必要とする書物ですが、改新政府のイデオロギーに基づいて編纂されていながら、馬子についてはあまり悪くは書いていません。それは彼が、推古朝を経営した功労者であったからで、そのことは改新政府自体も明言しています。その『書紀』は、馬子による崇峻殺害を記すものの、当時彼に対して批判や非難があったとは一切書いていません。近年佐藤長門氏が述べているとおり、当時朝廷に結集していた豪族たちにとって、崇峻排除はやむをえぬ事態、合意事項であったのかもしれません。