「俳優」は面白いですね。中世以降の芸能者には被差別民が重なりますが、この時期の「俳優」などはどのような存在だったのでしょうか。

これは重要な点だと思います。古代の芸能者は宗教者と不可分であり、共同体のシャーマンとして、神霊に芸能を捧げその言葉を託宣する、あるいは共同体の歴史、父祖の伝承を演じ語るものであったと考えられます。ヤマト王権に奉仕する者は、特殊技能を持つ語部、遊部などに編成されていました。『日本書紀』の乙巳の変に現れる「俳優」は、これらに連なるものであると同時に、「乙巳の変という物語り」が、のちの宮廷で芸能として演じられてきた可能性を示すものと思います(別の回答でもやや触れました)。中公新書の『大化改新』を著した遠山美都男氏は、彼らについて、「普段より用心深い入鹿から剣を取り上げる役割を担っており、クーデター側の人物。俳優の勤めたのが久米舞や吉志舞といった剣舞とすれば、統括者は阿倍氏や佐伯氏であり、軽皇子の周囲に結集していた阿倍内麻呂大伴長徳、佐伯子麻呂らが関係しているのではないか」と推測しています〔1993年、192〜195頁〕。久米舞や吉志舞は、神話的故事(戦争関係)を物語として持つ宮廷歌舞 であり、令制では治部省雅楽寮によって管掌されていました。『書紀』の編纂を志向してゆく天武朝には、饗宴などにおける舞楽の整備が進み、飛鳥浄御原令段階では雅楽寮の前身が形成されていたようです。『書紀』天武天皇2年(673)9月庚辰条には、「金承元等に難波に饗たまふ。種々の楽を奏す。物賜ふこと各々差有り」、同書天武天皇4年2月癸未条には、「大倭・河内・摂津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張等の国に勅して曰はく、『所部の百姓の能く歌ふ男女、及び侏儒・伎人を選びて貢上れ』とのたまふ」、同書天武天皇12年正月丙午条には、「是の日に、小墾田儛及び高麗・百済新羅、三国の楽を庭の中に奏る」、同書天武天皇14年9月戊午条には、「是の日に、詔して曰はく、『凡そ諸の歌男・歌女・笛吹く者は、即ち己が子孫に伝へて、歌笛を習はしめよ』とのたまふ」などとあり、天武朝に恐らくは外国使節を饗応するため、民間から芸能に長じた者が集められ、舞楽と楽府が急速に整えられたことが窺えます。なお、久米舞は、久米歌を含む剣舞として、楽府・雅楽寮などで伝習されたもので、王権直属の武力である大伴・佐伯が担当し、刀を携えて舞ったようです。久米歌は神武東征伝承や蝦夷征討と関連があり、国内統一の神話を演じたものと考えられています。また吉志舞は、やはり王権の側近の武力であった阿倍氏と渡来系氏族「吉士」との関係で成立、半島経略を前提にした武威→服属の舞楽であったものと推測されています。 国史の編纂が本格化する天武・持統朝、語部や遊部などに関わらず楽府整備に連動し、久米舞や吉志舞のような「国家の起源」を演じるものとして、乙巳の変の物語りが整備されていった。『書紀』の記述に「俳優」が現れるのは、その痕跡なのかもしれません。