立評についてですが、自分の私有地的なものを王権へ献上することに、何も抵抗はなかったのでしょうか。国の指示に従わない人はいなかったのですか?
7世紀の列島社会において、東アジアの国際的な変動は、中央に限らず各地方へも、少なからぬ影響をもたらしていたと考えられます。7世紀初頭までの地域社会は、同地の有力豪族が王権から国造に任命され委任統治を行う、あるいは県や屯倉などの王権の直轄地・拠点が存在し特別な職能を持つ氏族、渡来人などが奉仕している、中央の伴造に物資調達・身体的奉仕を行う伴・品部などの拠点があるといった、多様なコンディションにありました。スタンダードな国造領でも、渡来文化の流入や流通の活発化によって、さまざまな変動が生じていたものと思われます。国造としても、新たに王権の後ろ盾を得て、種々の具体的な特権を駆使できたほうが、地域からの利益を得やすいといった判断もあったことでしょう。しかし、天智天皇は即位して間もなく、改新政府が志向した公地公民の原則を緩和し、豪族による人民・土地の私有を一部復活させています。これは白村江の敗戦の影響もあり、改革の断行に対する不満、あるいは反対勢力の存在したことを意味します。壬申の乱の背景としても、まずこうした不満が前提としてあったことは間違いないでしょう。西日本・近畿に比べ保守的な状態にあったと想像される東日本では、そうした不満は小さくなく、それゆえに大海人を支持する武力として機能したのだとも考えられます。