当時の日本は唐に対して非冊封の関係を求めながら、なぜ遣唐使などを派遣していたのでしょうか?

日本の遣唐使は、必ずしも冊封を求める朝貢の使者ではなく、その優れた文物を摂取すること、留学生・留学僧などを派遣すること、交易をなどを目的としていました。中華王朝にとって、日本のような辺境の国は、〈絶域〉と認識されています。近年まで、〈絶域〉は中華王朝に朝貢を義務化されていない周縁であると考えられていましたが、最近の研究によって、個別の政治的な事情で、同じ位置づけの国でも密接な交流を求められる場合のあることが分かってきました。唐にとって、新羅が味方であった頃の倭にはあまり利用価値がありませんでしたが、両国が決裂し、また渤海が建国されて以降は、これらを牽制する位置にある倭の重要性は増してきました。別の回答でも書いたように、吐蕃突厥の活動によって、唐には新羅に兵力を割く余裕がなくなっていました。奈良時代に入り、白村江の戦いを経験した唐日の国交の回復した背景には、そのような政治的事情があったと考えられます。