庚午年籍は、いったいどこからどこまでの地域を対象にし、正確性はどの程度あったのでしょうか? / 古代社会において造籍が反発を招くものだったなら、それが一般的になるのはいつなのでしょうか。(書きかけ)

公地公民の基礎をなす戸籍の作成は、地域社会における首長の権限を抑制し、その支配や、共同体の自律的活動に介入することでもあり、当初は強固な抵抗があったものと考えられます。授業でお話しした義江彰夫氏によるフレーザー『旧約聖書フォークロア』の援用、庚午年籍作成への反発が壬申の乱の背景をなすのではないかという想定は、具体的にはそうしたことを意味します。『日本書紀天智天皇9年(670)二月条には、「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」との記載があり、これが庚午年籍作成を意味するものとみられています。孝徳朝から天智朝にかけて飛鳥で廃棄された木簡のなかには、「白髪部五十戸」と書かれたものがあり、人々を50戸すなわちのちの「里」の単位で把握していたことを示しています。「五十戸」表記は、天武持統朝の浄御原令まで依存しており、いいかえれば、令制造籍に相当する作業が、改新政府によって漸進的に実施されていたわけです。庚午年籍は、その最初の完成型だったのでしょう。天智天皇が、白村江の戦いでの敗北によって改革における妥協を余儀なくされるなか、この造籍を断行したのは、恐らくは唐の進軍に対するリアルな危機感があったからでしょう。白村江に動員された厖大な兵力は、主に西日本を中心に行われていますが、その大半は壊滅してしまった。兵力不足を補うためには、東国をはじめとする地域から、できるだけ多くの人員を徴発しなければならない。すなわち、庚午年籍作成の主要な目的は、兵役の賦課にあったものと考えられます。各地の豪族たちも不満を抱きつつ、しかし「いまここにある危機」を前に同意せざるをえなかったのでしょう。以降、庚午年籍は氏姓の根本台帳とされ、奈良時代における良賤訴訟(本来は良民であるはずが、何らかの手違いで賤民身分として造籍された人々が、身分の回復を求めて国家に訴えたもの)にも証拠として参照されています。『続日本後紀』承和6年(839)7月壬条には、「左右京職ならびに五畿内七道諸国をして、庚午年籍を写さしめ、以て之を中務省庫に収む」との記載があります。当時の造籍が、正確にどの階層まで、どの地域まで及んだのかは不明な点も多いのですが、後世の典拠となりうる事業であったことは確かです。なお、古代に造籍が一般化するのは8世紀、大宝令制においてですが、平安時代にはその制度は崩れてゆきます。私見ですが、その根本的要因は、人民の「非移動」を前提とする戸籍制度の思想が、人間の生活の実態(移動を多く含む)と乖離していたことにあると考えられます。