巨大な都城を造営し、視覚的イメージによって天皇の力を誇示することは理解できるのですが、中国の権威を用いることに意味はあったのでしょうか。当時の一般の人びとに、中国王朝の知識はあったのでしょうか。 / そもそも古代に人びとにとって、天皇とはどのような存在だったのでしょう。

やはり、都城の造営には、律令国家を運営することの実質的機能とともに、ご指摘のとおり権力の誇示の問題があります。その「誇示」には大きく分けて2つの面があり、ひとつは新羅や唐に対し、倭=日本の文明性と国力の大きさを知らしめること。中国的な都城制度を導入したのは、主にこの面においてです。そしてもうひとつは、地方豪族や一般庶民に対し王権の権力の強大さを印象づけること。造営の労働力として徴収された役民たちは、その大規模な土木工事に仰天し、できあがってゆく景観の凄まじさに圧倒されたに違いありません。また当時、中央への税である調については、良民自らが担い、陸路で中央まで運搬することが義務づけられていました(貢調運脚夫)。彼らが歩いてゆく道路もまた、これまでみたこともなかったような、石敷に舗装された、幅数10メートルに及ぶ直線道路です。それをおっかなびっくり歩き、這々の体で辿り着いた先には、朱塗りの柱、白壁、青々とした瓦で覆われた、壮麗な巨大建築群が聳える空間が出現するわけです。武田佐知子さんという研究者は、こうしたシステムのすべてが、人民に「被支配者」としてのあり方を、身体を通じて刻印する効果を持ったのだと指摘しています。中国王朝云々の知識があるかないかは、この場合それほど問題ではなかったでしょう。最後のほうはもうひとつの問いとも関わりますが、こうした自分を抑圧する権力の頂点に立つ存在が、庶民にとっての「天皇」です。それは現代の天皇のような、「親しみやすさ」という基準とは無縁のところに屹立する存在と考えます。