藤原四子亡きあと、藤原氏からの権力者をしばらく聞かないが、恵美押勝が権力を握るまでの藤原氏はどうだったのか。皇族に親族を多く持っていたため、その血縁を活かしたのだろうか。
古代から書き継がれてきた公卿の職員録である『公卿補任』によると、まず、藤原四子の死亡直後の天平10年(738)の廟堂の構成は、下記のとおりとなっています。橘諸兄は、授業でもお話ししたように不比等の女婿であり、藤原光明子の異母兄に当たる人物なので、不比等ダイナスティを次いで聖武・光明子を補佐する人物としては、「彼しか残っていなかった」のが実状でしょう。単純に、藤原氏vs.皇親のように理解すべき存在ではありません。豊成は武智麻呂の長男、仲麻呂=恵美押勝の兄に当たります。
右大臣 正三位 橘宿祢諸兄
参議 正四位下 大伴宿祢道足
続いて、藤原仲麻呂=恵美押勝が専制体制を築く前夜の天平宝字元年(757)は、次のようになっています。この年には改元を挟んでかなりの異動があり、諸兄は致仕、豊成も大宰府へ左遷されます。光明皇太后の庇護のもと、令外官の紫微中台を設置し太政官を超える権力を得た仲麻呂が、太政官では自分より上の地位にあった諸兄、豊成を追い落とした形です。永手は北家房前の次男、八束は同三男。乙麻呂は武智麻呂の三男、仲麻呂の弟です。弟貞は、実は長屋王と藤原長蛾子の子山背王で、母の氏姓を継いで藤原姓を名乗っていました。こうしてみると藤原氏は、氏ではなく、南家一家のうちで勢力争いが可能なほどに力があり、天然痘の痛手から急速に回復していたといえるでしょう。四子→諸兄→仲麻呂、といった理解だと、藤原氏と皇親との勢力争いによって政権が運営されていたようにみえてしまいますが、内実はかなり違います。
参議 従三位 大伴宿祢兄麿
参議 従三位 文室真人知努
非参議 正三位 竹野王
非参議 従三位 栗栖王