藤原京や平城京に住んでいた平民は、もともとその地に住んでいた人たちなのですか。それとも、募集などがあったりしたのでしょうか。
都城に本貫(本籍地)を持つ戸口を京戸といいます。京戸の由来については、実は明確に分かっておらず、もともとその地域に住んでいた人びとが編成されたとか、あるいは都城造営に奉仕した人々が定着したといった見解があります。ただし、ひとつ注意しておかねばならないことは、都城は通常の村里とは異なる政治的空間であり、京戸として編成された人びとの大部分は、国家を運営するための諸官司の庶務、もしくは都市を運営するための種々の役割を担っていた可能性が高いと思われます。例えば、律令の宮衛令24条には、「およそ京の街路には、街ごとに舗(交番のようなもの)を立てよ。衛府では、時間を決めて夜間の見回りを行え。夜を知らせる鼓が打たれ、諸門が閉じられて以後は、街路を歩くことは禁止する。もし、公的な使者として派遣された場合、婚姻の式などがあった場合、あるいは葬儀や病気のため、医薬を取りに行くといった場合、問い質して必要があると認めたらならば、許可せよ。これ以外の場合、夜間に出歩いている者は拘留し、夜が明けたら処罰のうえで解放せよ」とあります。天皇をはじめ高級貴族たちの生活する空間であり、また夷狄や海外施設への権力誇示を行う儀礼の場でもあったために、京戸の生活にも種々の規制が加えられていたのです。平城京の造られた菅原の地は土師氏という豪族の本拠地であり、平安京の造られた葛野は渡来系氏族秦氏の根拠地でした。正倉院に残った奈良時代の行政文書を調べてみると、諸官司に奉仕する下級官人には、土師氏出身の者が多かったようです。平安京の場合は不明な点も多いのですが、建設当初はやはり秦氏が多かったのではないでしょうか。貴族や官人のなかには畿内各地に本拠を持つ者も少なくありませんでしたが、下級官人、あるいは一般の京戸の大部分は、都城の建設地周辺から集住したものだったのではないでしょうか。『続日本紀』和銅元年(708)11月乙丑条には、「菅原地の民九十余家を遷し、布・穀を給ふ」とあり、平城宮の建設予定地であった場所に住んでいた人びとを、強制的に移転させたことが分かります。都城の場合、宮殿や巨大道路、大寺院を造営する際にはこうしたことが起こりえますが、彼らも遠方へ移転させられたのではなく、京内各所に宅地を班給されたものと考えられます。