貨幣は、古代ローマの場合、軍人が属州まで運搬していました。奈良時代ではどのように普及していたのでしょう。 / 蓄銭叙位令は、貨幣を蓄えることに繋がり、流通させることにはならないのではないか?

和同開珎は、主に平城京周辺の都市経済圏で流通していた、というのが実態です。そもそもこの貨幣は、律令国家が、その威信を賭けた藤原京造営から間もない時期、再び取り組まねばならなくなった平城京造営の財源を捻出するため、素材の質量以上に価値を付与して発行した名目貨幣であったようです。資財の調達等々、造営事業に関わる対価支払いの際にこれが用いられ、素材と名目価値の差額が、国家の「利益」となったわけです。いわば「貨幣を買わせる」ことに意味があったので、蓄銭叙位令なども実施されるに至ったのです。しかし、それゆえに偽造も容易で、発行直後から私鋳銭に悩まされ、最終的には廃止に至ってしまいます。近年の江草宣友さんの研究によれば、和同開珎の銀銭などは、貨幣としての廃止後も、銀の地金として流通していたようです。その背景には、7世紀後半頃からの無文銀銭(新羅からの将来の可能性があります)の流通があったようで、銀や銅を経済活動における交換の媒介として用いることは、畿内では7世紀段階で始まっていた。和同開珎は、主にその作法が通じる世界で流通した、といえるでしょう。