どうして仏教が政治に介入してくるまでに、影響力を持ったのでしょう。仏教のどのような教えが、当時の人々に受け入れられたのでしょうか? / 仏教は平民にどれくらい広がっていたのですか?

別の質問にも回答しましたが、まず、当時国家に承認された正式な僧尼は、いわば官僚に等しいものでした。彼らは王権・国家のために仏教を学び、実践する義務・責任があったのです。また、唐や新羅に渡って最新の仏教的知識に触れ、帰国した留学僧らが、例えば則天武后の仏教治国政策などを伝え、それらを参考にしながら仏教国家が築かれていったのです。とくに、国分寺制度の発案者であり、『金光明最勝王経』を将来した可能性のある道慈や、新訳の経典を多く将来し、橘諸兄のブレーンとなった玄昉、東大寺の前身=金鐘仙房を拠点に『華厳経』を宮廷へ説いた良弁らは、宗教/政治が絡み合う最先端で活躍した僧侶といえるでしょう。称徳天皇に重用され、皇位を継ぐ一歩手前までゆく道鏡は、良弁の弟子に当たります。一方、当時の民間においては、律令国家の成立に伴うさまざまな社会的抑圧から人びとを救済し、またその役割を補完して道や橋、船津などの交通施設、溜め池や用水路などの灌漑施設を建設していった、行基ら「菩薩僧」と呼ばれる人びとがいました。彼らは「罪福の因果」、すなわち良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるとの簡素な教説を唱え、人びとに善行を促しながら、その協力をもとに上記の事業を推進していったのです。その影響力は大きく、当初行基を非難していた律令国家も、やがてこれを公認せざるをえなくなり、最終的に大仏造立の勧進に利用、大僧正の地位へ就任させてゆくことになります。渡来系氏族の多く蟠踞する畿内地域には、比較的早くに仏教が浸透し、国家が奨励したこともあって、豪族たちは競って氏寺を建てました。平安期の皇円撰『扶桑略記』によれば、推古天皇32年(624)4月18日条には「此の時、本朝の寺四十六院、僧八百十六人、尼五百六十九人」とあり、また持統天皇6年(692)9月条には、「敕有りて、天下の諸寺を計へしむるに、凡そ五百四十五寺」と出てきます。同書には相応の史料批判が必要ですが、近年の考古学的発掘によって、概ね実態を反映した数字ではないかと考えられています。70年ほどの間に10倍に増えた計算ですが、8世紀前半の段階では、充分な信仰もなしに豪族たちが寺院を建てすぎたため、これが飽和状態となって荒廃するものも出てきたため、地方官に転出していた藤原武智麻呂の献言により、これを整理する「寺院合併令」が出されるに至りました。奈良時代には、すでに東国でも、大規模な国分寺のほか民間規模の村堂も出来ており、僧尼の活動により急速に仏教が浸透していったことが知られます。しかしその大部分は、現世利益を求める新たな呪術としての面が強く、思想的な理解がどの程度進んでいたかは、また別に考察する必要があるでしょう。