業病治癒のための滅罪として『法華経』が用いられたとのことだが、当時はそうした病気の人々を蔑視するような発想はみられなかったのか。

業病の概念としては、悪業の結果、すなわち悪報として不治の病を背負う、ということです。これが中国、東アジアにおいて喧伝されたのは、中国における三武一宗の法難、より正確にいえば、うち5世紀前半の北魏武帝による廃仏、6世紀後半の北周武帝による廃仏を契機としています。初唐に廃仏が起こりかけたとき、儒教道教に反論し仏教を擁護した護法沙門法琳が、『弁正論』などの著作において、廃仏行為に組した歴代の帝王たちが業病に苦しみ死んでいったさまを、厳しく糾弾して描いています。これらを受け継いだ初唐の一大仏教類書(仏教百科事典)『法苑珠林』にも、廃仏行為の悪報がいかに残酷なものであるか歴史を踏まえて詳述されており、後世に大きな影響力を持ちました。『日本書紀』の欽明朝から用明朝に至る崇仏論争記事が、廃仏と疫病の流行が交互に繰り返され、最終的には廃仏派が滅ぼされ国家的崇仏に至る形式で書かれているのは、これらの書物の内容を、皇位継承をめぐる争いに絡めてつぎはぎしたものです。業病の代表は「瘡」病で、これはハンセン病、もしくは天然痘を指します。『日本書紀』では、敏達天皇用明天皇も、この「瘡」病で死去したことになっています。こうした認識があったからこそ、天平9年の天然痘大流行による藤原四子の死が、「長屋王を自殺に追い込んだことによる祟りだったのではないか」と考えられたわけです。この頃から、国分寺を中心にして、人間の罪業を滅却する悔過の法会が盛んになってゆきます。当時、「不治の病は悪業によるもの」との発想が広がり出したことは確かですが、それゆえに滅罪による除去は可能と考えられており、未だ過度な差別には繋がっていなかったようです。平安期に入ると、除去不可能な穢れを背負ったものとして被差別部落に繋がる人びとが疎外、それとリンクして病者への差別も明確化してゆくのです。