授業の最後に出てきた藤原広嗣の乱の起こった要因として、藤原氏のなかでの派閥争いまたは当時の政治体制に不満、もしくは一部の人に有利に展開されていたのか? 九州で起きたとすると、対外的な要因があったのか?
藤原広嗣については、まず、奈良時代の正史『続日本紀』の天平12年8月癸未条に、「大宰少弐従五位下藤原朝臣広嗣上表し、時政の得失を指し、天地の災異を陳べ、因りて僧正玄昉法師、右衛士督従五位上下道朝臣真備を除くを以て言と為す」と出てきます。すなわち、近年の災異を朝廷の執政と指弾し、その是正のため、橘諸兄が重用している玄昉・吉備真備らの排斥を要求したのです。4日後に朝廷は、広嗣が大宰府で挙兵したものと認識し、大野東人をはじめとする将軍を任命し、鎮圧のために派遣しました。当時の公卿の構成は、右大臣橘宿祢諸兄、知太政官事鈴鹿王、参議大伴宿祢道足(右大弁)・藤原朝臣豊成(兼中衛大将・兵部卿)・大野朝臣東人(兼按察使・大養徳守)・巨勢朝臣奈弖麿(兼民部卿・春宮大夫)・参議大伴宿祢牛養(兼摂津大夫)・参議縣犬養宿祢石次(式部大輔)、非参議・散位藤原朝臣弟貞・百済王南典、となっていました。確かに藤原氏は少ないかもしれませんが、四子をも死なせた天然痘の傷は未だ癒えず、次世代も充分に成長していない状態の、人材不足のなかでまとめられた布陣といえるでしょう。しかし、以前にも確認したように橘諸兄は不比等の女婿であり、かつ藤原光明子(聖武の皇后)の異父兄に当たります。参議には、藤原武智麻呂の長男豊成が名を連ねており、しかも彼は中衛大将・兵部卿として、律令国家の軍事権を掌握していました。そもそも光明子が皇后の地位にあり、彼女所生の阿倍内親王が皇太子に即いているわけですから、藤原氏にとって危機的な状態ではないはずです。吉備真備は武智麻呂の意向を受けて入唐、種々の文物を将来して礼制を整備、阿倍内親王の立太子に大きく貢献した人物です。諸兄の政治も、四子の目指したそれを踏襲したもので、藤原氏内部から批判されるいわれはなかったでしょう。とくに光明子にしてみれば、四子の病死が長屋王の変の報いとの批判を受け、宮廷社会において微妙な立場であった時期で、一族から謀叛人を出したことは相当な衝撃だったに違いありません。広嗣の行動には正当性がなく、私怨によるものか、あるいは、廟堂に長屋王の関係者(鈴鹿王は長屋王の弟、藤原弟貞は長屋王の子)が入っていることへの危機感があったのかもしれません。なお、『続日本紀』同年11月戊子条によると、追い詰められた広嗣は値嘉島を発して新羅へ逃げようとしますが、西風が強く吹いたために果たせず、捕縛のうえ斬首されます。新羅へ亡命しようとしたのは、そもそも何らかの政治的な駆け引きがあったのか、それとも臨機の、窮余の策であったのかは不明です。